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「会社が消えた日~三洋電機10万人のそれから~」(後編)

●人を分断する「パナの壁」
(中略)
「来週にはみんな中国や東南アジアに散りますから、ここはガラガラになりますよ」と土屋は笑った。ここで働く150人は、技術指導や共同開発で常に海外を飛び回っている。三洋電機時代にはなかったことだ。
 土屋はプラザ合意前年の1984年、東京三洋電機に入社した。為替は1ドル=240円の水準で安定しており、メード・イン・ジャパンの家電製品が米欧市場を席巻していた時代である。「30年後に自分の会社がどこかに買われるなんて、思いもよらなかった。なにせ30年前の中国の電機メーカーは企業の体をなしていなかった。

●サンヨーてんでんこ
(中略)
1954年に松下電器産業と資本提携したビクターは2007年にケンウッドと業務提携するまで、松下傘下で経営の自主性を認められ、「ビクター」「JCV」のブランドを維持した。

●あえて赤字部門に志願
(中略)
 三洋電機が日本初の噴流式洗濯機「SW-53型」を発売したのは1953年。
(中略)
「自分の設計で妻や子供を笑顔にしたい」と語る鳶は、まぎれもなく歳男のDNAを受け継いでいた。
「私、あの人たちに惚れちゃったのよ。日本にもまだこんな人たちがいたんだ、って」
(中略)
きっと鳶のような、消費者のことを一番に考える真っ直ぐな技術者たちに(野中が)会ったのだろう。そんな技術者を数多く抱えていたのに、それでもサンヨーブランドは消滅してしまった。

●無名のハンディを超えて
(中略)
「技術者は絶対に止まっちゃいけない。(中略)それが理想です。我々は三洋電機の文化を持って、ハイアールに来ました。負けるわけにはいきません」
 京都に来る時、鳶は群馬の家を処分した。もう戻る場所はない。

●社員に向けた新聞広告
(中略)
2012年2月16日から、小泉今日子のテレビCMが全国で放映された。
(中略)
「一歩を踏み出すには勇気がいる。新しいことを始めるのは覚悟がいる。無謀な、という人もいるかもしれない。でも、これまでなかったことを始めることには大きな意味がある。
だれもたどり着いたことがない場所へ踏み出すことは、それだけで価値がある。そう考えます。
アクア、デビュー。世界160ヵ国で白物家電をお届けするハイアールと日本の人材、技術がひとつになって、家電に新しい風を。」

●「世界初」「日本初」の携帯電話
(中略)
藤井はいう。
「『世の中にないものを作れ』というのが(携帯電話事業担当の専務)寿(英治)さんの口癖でした。(後略)」
●「日めくり」を活力源に
飯野は三洋電機と京セラの違いをこう感じた。
(中略)
「みんなで団結して、1つの方向にわーっと走る。そういう勢いみたいな部分は三洋電機の方が上でした。しかし、緻密さ、真剣さ、詰めに欠けていた。居心地はいいんですけどね」

●「赤い洗濯機」で惨敗
(中略)
「なーらんだー、なーらんだー、赤、白、黄色。どの色見ても、売れないねー」
山本たちは童謡チューリップの節回しで自虐的な歌を歌うしかなかった。

●量販店にできた“待合室”
(中略)
YKK(ヤマダ電機、コジマ、ケーズデンキ)のバイヤーの多くは高卒の叩き上げが多い。彼らはきつい言葉で相手のプライドを容赦なく傷つける。大卒のひ弱なメーカー営業担当者をいたぶって楽しんでいるようにも見えた。ぎりぎりまで追い込んだところで、今度は猫なで声を出す。(値引き要請に屈した三洋)

●売り切って辞表を提出

三洋電機だけではない。あらゆる電機メーカーが、投資家に背中を押されて採算の悪い事業を切り捨てた。主力製品の生産拠点は続々と海外に移り、国内の雇用はどんどん減っていく。残った仕事もコスト削減のため、正社員ではなく派遣や請負の社員に任せていった。利益の多くは海外現法が稼ぐようになり、日本ではろくに税金も納めていない。経営者の顔は投資家の方ばかりを向き、雇用や納税といった企業の義務を忘れているように見えた。
「わしらは投資家に魂を売っとるんと違うか」
山本はそう思った。

●白虎隊に自分を重ねる

新卒者の4割が非正規社員になり、年収200万~300万円の状態から抜け出せない。それでは結婚もできないし子供も育てられない。山本が三洋電機に入ったのは1988年。バブル経済の絶頂期で、就職先には困らなかった。社内競争は厳しかったが、一度入社してしまえば定年まで収入が保証された。
(中略)
 三洋電機には。白虎隊のように、勝ち目がないと分かっていても古い時代にしがみついてしまう不器用な人間が多い。山本もその一人だった。
(中略)
やり切っても、だれも褒めてはくれない。「この仕事が終わったら、自分の居場所がなくなってしまうのではないか」。そんな不安を抱える部下たちを鼓舞しながら、山本は密かに決意していた。
(これが三洋電機での最後の仕事だ)→彼は公立高校の校長になる。

●新潟中越地震の衝撃
(中略)
 だがパナソニックの子会社になった後も三洋電機のリストラは続いた。パナソニックが「不要」と判断した事業を次々に売っていったからだ。デジカメ事業は投資ファンドのアドバンテッジ・パートナーズに、白物家電事業はハイアールに売却され、海外を含め約10万人いた三洋電機の社員はついに1万人を割り込んだ。
 リストラの嵐をくぐり抜けパナソニックグループに残った約9000人も、2013年末時点では親会社のパナ社員より2割ほど安い。出向が「転籍」に変われば給料は同水準になるはずだが、いつ、何人転籍できるかは2014年3月の時点でまだ明らかにされていない。
 三洋電機という船からパナソニックに乗り換えて、定年まで航海を続けるつもりだった三洋電機の社員は、ある日突然、荒波の中に放り出された。三洋電機CEの副事業部長だった桑野もその中の1人である。(支店長説明会の後もうけた酒席が社内接待疑惑となり、和田社長就任祝い強要(秘書の勧め)疑惑がかかり、謹慎中に前部署女性へ送信したメールがセクハラ疑惑となり、ハメられてしまう。退職金も50歳に2ヶ月在籍不足で満額にならない)

●アイリスオーヤマに見る未来図

大山は言う。「世界最大とか最新鋭とか、これまでの電機産業は立派な工場を建てることが目的になっていませんでしたか。工場なんて、モノを作るための手段ですよ。(中略)電機業界から来た人たちの話を聞くと、赤字を出しても、他社が同じ事業で赤字なら怒られないそうです。『市場環境が厳しかった』で済むから。ところがシェアを落とすと怒られる。『どうしてあそこに負けたんだ』と厳しく叱責されるんです。だから、みんな採算度外視でじゃんじゃん売って、シェアを取りにいく。事業の目的は利益であってシェアではない。しかし、競争、競争できたサラリーマン経営者は、どうしてもシェアに目が行ってしまう。結果としてPL(損益)無責任経営がまかり通る。」

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